6月3日(この記事をアップした日)は、ボクサーのモハメド・アリ(1942~2016、アメリカ)の命日です。このブログでは、コンテンツの一部として、その誕生日や命日などに偉人を紹介する記事をたまにのせています。
モハメド・アリは、ボクシング史上最も有名なボクサーでしょう。それは強かったからだけではありません。強さや戦績だけなら、彼に匹敵する人はほかにもいます。
アリはローマオリンピック(1960年)で金メダルを獲得したのち、プロデビュー。そして、ボクシングの「華」といえるヘビー級に新しいスタイルを持ち込みました。
彼以前のヘビー級は「大男の豪快な殴り合い」が基本でした。どっしりした、パワーとパワーのぶつかり合い。
アリは、そこにフットワークやスピードなどの軽量級の洗練されたテクニックを導入したのです。彼以後、ヘビー級のボクシングは大きく変わります。そんな変革者だったからこそ、長く名を残したのです。
あるアメリカの識者はこんなふうに評しています。「ボクシングという本来なら華麗であるべきわざが、絵に描いた船のように嘘っぽい様相を呈していたまさにその時、ひとりの新たなヒーローが、海からその(嘘っぽい)船を引き揚げるタグボートのようにあらわれた」と。
つまり、沈滞していた1960年頃のボクシングを、アリは刷新したのです。
そして、自分のボクシングを「蝶のように舞い、蜂のように刺す」などと表現しています(これは他人の言葉をアリが採用したもの)。
自分の分野で新しい何かを構築するとともに、それを上手い言葉で表現する。どんな分野でも、名を残す人の大事な要素です。
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そしてさらに、アリはすぐれたボクサーであるにとどまらず、文化や社会にインパクトを与える、すぐれた表現者・コミュニケーターでした。
たとえば、彼はもともとはカシアス・クレイという名前でしたが、イスラム教(ブラック・ムスリムというアメリカ黒人が主体の社会的宗教活動)に接近して入信し、1964年にイスラム教徒としての名前であるモハメド・アリに改名しています。
クレイという「奴隷時代から受け継いだ名前」は、自分の真の名前ではない、というのです。
これに違和感を感じる人は多くいました。しかしそこには「俺は自分のなりたい者に自由になれるんだ!」というメッセージがこめられている、ともいえるでしょう。
そして、1967年には、チャンピオンとして脂がのっていたまさにその時期に、ベトナム戦争への徴兵を拒否したことで、キャリアを中断しています。
彼の行為は当時、アメリカ国内では多くの非難を浴びました。しかし、このときに彼が言った「俺はベトコンには何の恨みもない」という言葉は、やはり意義深いものだったのではないでしょうか。
*「ベトコン」は、アメリカが支援する側のベトナム政府の敵方である社会主義勢力、最終的にベトナム戦争に勝利した側
この徴兵拒否は、大きな代償を伴うものでもありました。アリは徴兵拒否によって有罪となったことを理由に、タイトルやライセンスをはく奪されてしまったのです。
その後、1971年には最高裁で有罪判決が覆され、アリはボクシング界に復帰できました。
そのとき「訴訟を起こして奪われたタイトルを取り返す」ことも可能だったはずなのに、彼はそれは行わず、試合に勝つことでタイトルを取り戻したのでした。
そして、1996年のアトランタオリンピックの開会式で、彼がトーチに火をともす姿。
パーキンソン病を患っていた彼の身体はたしかに不自由な様子で、手も震えていた。その姿を「最強のチャンピオン」だった男が全世界にさらしている。
それもまた、言葉にしがたい強烈なメッセージでした。
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月並みなまとめかもしれませんが、これほどまでに「生きざま」が社会に対する強いメッセージを発するアスリートは、彼以外にはまずいないように思いますが、どうでしょうか?
現役の頃のアリには「ボクシングは強いけど、おしゃべりな、おさがわせ男」というイメージもありました。少年時代から若い頃の私(今50代後半)も、ばくぜんとそういう目でみていました。
しかし、時が経ち、彼が亡くなってしまった今振り返ると、ちがいます。
「これだけ多くのことを私たちに与えてくれる偉大なアスリートは、もうあらわれないだろうな」と寂しい気持ちになるのです。
いや、そういう偉大なアスリートは、今もいて、これからもあらわれるのかもしれません。ならば、アリはその「元祖」だといえます。
(参考文献:徳岡孝夫監訳『TIMEが選ぶ20世紀の100人・下巻』アルク 所収のジョージ・プリンプトン執筆「モハメド・アリ」の項)
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