今回の東京都知事選の結果をみて、とくに思ったのは、つぎのことです。
「政治において、与党や既得権側ではない、挑戦者あるいはアウトサイダーにつよく求められるのは、“有権者のあいだで何が嫌われているか”を察知することである」
その「嫌われている何か」がみえていれば、それを「敵」として批判・攻撃することを、ときには貶めることさえも、徹底して行うのです。
情熱をこめて、ひるむことなくそれを行う。それは自分の立場や論点を明確にする、ということです。自分についてのイメージづくりの核でもある。攻撃対象である「敵」は、対立候補の場合もありますが、むしろそれ以外の「社会のなかの何か」であることが一般的です。
もちろん、そのような「攻撃」だけでなく、建設的なメッセージや政策も求められます。しかし、そこは肝心ではないのかもしれません。
つまり、とくに目新しい、すぐれた内容のものでなくても、一定のレベルの主張や政策のパッケージがあれば、とりあえずはそれで良い。もちろん、創造的ですぐれた政策が打ち出せるなら、なお良いのですが、それは必須ではない。
あるいは抽象的に「変化」「改革」「既存の体制を壊す」的なメッセージを効果的に伝えることができれば、まずはそれでよいのではないか。身もふたもない話ですが、有権者は、政策の詳細にはなかなか関心を示さないからです。
以上は、別の言い方をすれば、「ここに、これらの事柄や人びとを嫌っている、憎んでいる人たちがいる」という「鉱脈」を、手ごたえをもって発見できたら、その「挑戦者」は強い、ということです。
もちろん、「鉱脈」を発見しただけではダメです。それを掘り起こしていく具体的なスキルや実行力が必要なわけです。しかし「鉱脈」がみえていなければ、いろいろやってもなかなか成果はあがらないでしょう。
「何が嫌われているか」をうまく察知したアウトサイダーの政治家が天下を取った例は、いくらでもあります。
その近年の最大の例は、トランプ氏です。彼は、アメリカの既得権側のエリート的な人びとや「正統派」とされるマスコミや知識人などの、いわば「優等生」たちが、ある種の人たちにおおいに嫌われていることを発見しました。
この「ある種の人たち」には、さまざまな属性の人びとが含まれます。それだけに、その「鉱脈」はじつに大きなものだったのです。
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今回の都知事選で、蓮舫氏は結局のところ、以上の意味での「鉱脈」を察知できなかったのでしょう。「みれどもみえず」だったのかもしれません。蓮舫氏のバックにいる野党にも、同じことがいえます。
一方、石丸氏は「何が嫌われているか」を、蓮舫氏よりも正確につかみ、その鉱脈を掘り起こすために必要なことを、強い意志で実行したのです。そのことで自分の立ち位置や、政治を変えるという想いを明確に表現した。だからこそ、当選はできませんでしたが、相当な票を集めました。
石丸氏がSNSをフル活用したことは重要ですが、しかしそれ以上に大事なことがあるはずです。
だとしたら、「(今の日本の政治で)どのような人たちが、何を嫌っているか」という話になるのでしょう……でも、殺伐とした内容になりそうなので、ここらへんでやめておきます。
今の新しい政治の動きは、特徴として、何かへの嫌悪や憎しみを根底につよく持っていると、私は思います。これはインターネットとの親和性も高いはずです。
嫌悪や憎しみが政治を動かすのは、今に始まったことではありません(歴史的にもみられることです)。政治にとって必然的で必須なことなのかもしません。しかし、やはり嫌だな・辛いな、と感じてしまいます。